『セオラー宣言』ドラフト置き場

R大学I氏は寿司が好きだった

セオリーとは

「セオリー」という言葉はよく聞きますが、それはがっちり定義が共有されているわけではなく、みんなテキトーにオレ流の定義で使っています。まあ、テキトーに使うことが前提の言葉なのでそれで良いわけですが。ただ、本書では「セオリー」のやり方(あり方と言った方がいいかな)をゴリッと論じていくので、本書で言うところの「セオリー」ははっきり定義しておきましょう。

本書における「セオリー」がベースとしているのは最も素朴な形で使われる「セオリー」です。最も素朴な「セオリー」は、大雑把に言えば「ニューケース」と「DAとケースアタック以外のNEGイシュー」を指しています。ただ、この言葉の境界はかなり朧げです。カウンタープランなんかはものによってセオリーと言われたり言われなかったりします。場合によっては、「トピカリティでもニューケースに対するものであれば「セオリー」じゃない!」とか言われることもあるかもしれません。そもそも、人によって境界は結構違います。

こんなこともありました。私は現役の頃は誰もがセオリーと呼びそうなイシューしか使っていませんでしたが、3年生のときにKAEDEに出たときは「たまにはネットでもやるか」的なノリで、NEGはDAとケースアタック[1]にスピーチ時間の大半を割いていました[2]。そのKAEDEのオープニングルームで談笑しているときに「一ノ宮はどんなNEGイシューやってるの?」という話になったので、そのとき使っていたDAとケースアタックの話をしたんです。すると、「そんなのはもはやセオリーだ!」と言われました。

実に素朴で朧げで良いですよね。しかし、朧げなりにも特定のイシューに対して「これはセオリーだ!」という感覚を呼び起こす何かがあるはずです。その何かは、「普通じゃないことをやっている」という印象です。

では、「普通じゃない」という印象を呼び起こすのは何でしょう。それは、そのイシューが「常識を否定していること」です。たとえば、モデルケースに対するトピカリティが「普通じゃない」という印象を与えるのは、常識では「モデルケースはトピカルなのが当たり前」と考えられているのに、トピカリティの提出はそれを否定できることを前提としているからです。その他の「セオリー」と呼ばれそうなイシューはすべてそうです。そういったイシューは、「そんなに少ない証拠資料で勝ちにくるんかい!」とか、「そんなちょろっとスピーチするだけでええんかい!」といったディベート界の常識を破っているイシューなのです。

ただ、「セオリー」が厳密に「常識を破るイシュー」を指す語として使われているかというとそうでもありません。たとえば、モデルケースに対するトピカリティでも「捨てT」と呼ばれるものは通常「セオリー」に分類されますが常識は破っていません。「捨てT」が「セオリー」とされているのは、常識破りである「モデルケースに対するトピカリティ」の一種とされているからです。しかし、「捨てT」が有効とされているのは、それが対象とする特定のモデルケースが持つ「トピカルである」という常識を覆す理屈を持っているからではなく、誤って作られた「トピカリティの作法」とでも言うべき別の常識に従っているからです。

本書で言う「セオリー」は厳密に「常識を破るイシュー」を指す語として使用します。そのため、捨てTは「セオリー」とは呼びませんが、「捨てTが有効である」という常識を否定することは「セオリー」と呼びます。逆に普通は「セオリー」と呼ばれないようなものを本書では「セオリー」と呼ぶ場合もあります。たとえば、一般的には「本質的である」とは思われていない本質的なDAを出すことなんかも「セオリー」と呼びます。要は「王様は裸だ!」というのがセオリーです。

しかし、このまま本書を読み進めてしまうとおかしなことに気付くでしょう。競技において常識を覆すような技術で勝つなんてのは革命的なことであって、ごく稀にしか発生しないはずです。にもかかわらず、本書はセオリーでコンスタントに勝つことを推奨し、実際にたっぷりとセオリーを紹介している上、本書の内容にしたがえばセオリーはこれまでにもそれなりにコンスタントに出てきていることになるのです。

その理由を説明する前に「常識」とは何かという点について少し具体的にしておきましょう。常識とは「確定的に解答が出せそうな問題についての、一般的に信じられている解答」のことです。

常識で焦点が当たっている問題は「確定的に解答が出せそうな問題」であるため、そもそも間違えにくいのです。そのため、覆す余地のある常識が発見されることは非常に稀です。また、常識は一度覆されると、今度はそれを覆した解答が新たな常識となり、それが新たに覆されることも非常に稀です[3]。つまり、競技において常識が覆される余地はそもそもあまりない上、覆される余地が発見されてもそれは一度覆されると消えてしまうのです(間違っていた解答が他の常識と同等に覆そうにない新しい解答に取って代わられてしまう)。だから、競技で常識が覆されることは非常に稀なのです。

ところが、ディベートでは常識が間違えまくっているためそもそも覆す余地が多い上、間違いを認められない精神性とそれを正当化する技術的装置のせいで新たな解答によって余地が消えることがないため[4]、「セオリー」はコンスタントに出し続けられるのです。

ただし、これは望ましい状態ではありません。ディベート界の常識をすべて正すことは本当に難しいことですが、それはいつか到達すべき地点です。そこに到達したときに「セオリー」は消滅します。

もちろん、今ある明らかな間違いをすべて正しても、常識が覆される可能性は永久に残ります。しかし、そこまで行けばもう他の競技と同じ水準になっているわけですから、常識が覆されることは非常に稀になり、「セオリー」というイシューの分類は完全に用事が無くなります。ディベート以外に、「常識を覆すような技術の革新」に対して技術の分類の1つとして術語が当てられている競技はありません。ディベートもいつかはその水準に達する必要があります。

 

[1] DAではなく、誰もが「ネット」と呼びそうなカウンタープランだったかもしれません。記憶が朧げです。

[2] ジョイントで出ていたので、AFFは2A担当のパートナーがイシューを用意していました。

[3] 場合によっては、ある常識を覆す解答が、その常識で取り上げられている問題が「確定的に解答が出せそうである」という点を覆した上で提示されたその問題の最適解であることもあるでしょう。この場合も、その問題はもう解答が常識になるものではなくなっているため、常識を覆す余地が消える点は同じです。

[4] この辺の事情は、上巻と中巻で論じています。