『セオラー宣言』ドラフト置き場

R大学I氏は寿司が好きだった

セオラーにとっての勝敗

まず、上巻で述べた通り、ディベートの勝敗はジャッジを何人に増やそうが、何試合重ねようが多数決の結果に過ぎません。その価値は状況によって与えられます。優秀なジャッジによる勝利バロットの積み重ねであれば目指すべきところでしょうが、逆張り推奨ジャッジによるものは反省すべきところでしょう。

もちろん、ボクシングなどのように買収などのアクシデントがない限り、各ジャッジに相当程度のジャッジング精度が期待できる競技であれば(ほとんどの判定競技がそうです)、勝敗には大きな価値があります。

ところが、ディベートはそうではありません。本来であれば、ディベートの判定の精度もボクシングなどにかなり近づけることができますが、現在のディベート界はそれにはほど遠い状態です。

また、そもそもセオラーにとってのディベートにおいてはジャッジの質が低いことは必然なのです。なぜなら、セオリーの存在は、ディベート界の常識が盛大に間違えまくっていることが前提であり、ジャッジもその間違った常識でイラりまくることが必然だからです。

そのため、素朴に考えれば、現在のディベート界における勝敗は無価値というか、むしろ逆張り指標です。現在のディベート界からすれば、正しいことは非常識ですから、意味不明に排除されます。純粋に、正しいことを簡潔、明確、厳密にスピーチするだけのディベーターは勝ち越すことすら難しいでしょう。なので、セオラーは勝利を第一義としてはならず、勝敗に一切心動かされてはなりません。

しかし、全勝の短冊にも全敗の短冊にも一切リアクションしない、山で勝とうがガッツポーズしない、負けてもうなだれない、そんな心動かざること山のごとき現役というのは到底想像できないのです。確かにその態度は正しい。正しすぎる。そんなことができるのは、上巻さえ読めば本書を一切必要としないような、あるいは上巻すら必要としないような諸葛亮司馬懿クラスの英雄でしょう。かわいげも何もあったものではありません。

そこで、本書では「正しくても勝てる方法」を伝授したいと思います。その方法を実践するなら、勝敗もその方法の習熟度を「ある程度」証明する指標としての価値を認められます。ただし、その方法にもある悲しみが伴いますが・・・。