『セオラー宣言』ドラフト置き場

R大学I氏は寿司が好きだった

コンパリ

「コンパリ」とは、「特定のADとDAを比較すること」あるいは「競合する政策を比較すること」です。コンパリについては、定義は間違っていませんが、技術論におけるその位置付けとそれに関する技術論が間違っています。

要素還元

まず、最も一般的なコンパリの技術を叩きましょう。ディベーターなら誰でも一回生のときに教えてもらう「クオリティ」、「クオンティティ」、「リスク」の3つの要素[1]にADとDAを分けて、それぞれに比較していくという手法です。

この要素に分けるという発想は、モデルとして考えているだけであればありなのですが、技術としてはまったく役に立たないんですね。それを無理矢理役に立っていることにしようとして、どんどん歪んでいったのがネッターのコンパリです。

まず、この技術が有用になるとすれば、「ADとDAは全体としてみると朧げで比較できないが、要素に分ければより明確になって比較できること」が必要条件の1つです。しかし、少なくとも現在主流となっている3要素の場合は、分けたところでまったく明確になりませんよね。そして、他にこの条件を満たせる要素の分け方が見つかることも期待薄です。めちゃくちゃ焦点を絞った明確な要素を設定することは可能ですが、そうするとその要素が焦点を絞った分、他の要素でADとDAの全体像をカバーしなければならないわけですからそれらの要素を明確にすることは難しくなります。結局はシーソーゲームになってしまいます。

それに、あまりにも当たり前なのに見落とされているのが、要素ごとに考えたところで最終的にはそれを統合してAD全体とDA全体(さらには政策同士)の比較に落とし込まなければならないという点です。たとえば、クオリティとクオンティティでAD > DA、リスクでAD < DAになったとすれば、前者のADの勝ち分と後者のDAの勝ち分を勘案した上でAD全体とDA全体の決着を付けなければならないわけです。こんなんで、ADとDAの比較がやりやすくなるわけがありません。

結局、モデルとしてはイケたものを技術としてもイケると勘違いしてしまったのが災いの元でした。そして、これらの重大な問題をネッターは現実をねじ曲げることで解決してしまいました。

まず、ADやDAからいろんな現実のすったもんだを思いっきり捨象することによって、ADやDAを設定した要素で表せるようにしてしまいます。たとえば、戦争系のイシュー[2]であれば、大抵クオリティは「死」になりますがこんなものは簡略化しすぎにもほどがあります。たとえば、第二次大戦における日本なんて誰一人国民が死んでなくても空襲で焼け野原になった分だけで甚大な被害があるわけですし、古典的な侵略を受ける場合であれば敗戦後に発生する死以外の諸々がとんでもなかったりするわけです。そういったすったもんだは全部忘れないと、クオリティ一つ明確になってくれやしないのです。

しかも、クオリティだけでもなんとか「死」とか「がん」みたいに「個人への影響」レベルまで表現を具体化できたとしても、クオリティとリスクまで同様に明確になってくれるわけではありません。そこで、またネッターは現実をねじ曲げます。ネッターは、1つの要素のみ比較するだけでコンパリとして事足りていることにしてしまいます。クオリティだけ比較して他の要素には一切触れないとか、ざらに行われていますね。もちろん、他の要素が等しいという前提であれば良いですが、そんなことは考えてすらいません。

ここまでくればもう自由奔放にコンパリができます。AFFがクオリティでコンパリしたのに対しNEGがクオンティティでコンパリ仕返してみたり、相手のコンパリで設定されたものよりクオリティのレベルを下げること(「死」→「失業」など)によってクオリティのレベルを上げた上でクオンティティコンパリを仕返すなんてことも可能です。お互いのコンパリを経た上でイシュー間の比較の決着をどう付けるのか、ましてや政策同士の決着をどうするかなんて知ったこっちゃないのです。

では、どうすれば良いのか

とにかく、現在一般的にやられているコンパリはどうしようもないことは分かりましたが、ではどうすれば良いのでしょうか。私としてはあまり興味もないし、能力もないので知ったこっちゃないというのが本音ですが、言えるだけのことは言っておきます。

とにかく、ケースバイケースで考えるということ、そしてその際コンパリが登場せずに決着する可能性も過小評価しないことが大事です。これは、コンパリを、それが現在技術論において占めている地位から引きずり下ろすことにつながります。

まず、これまで論題に関係なく普遍的に適用可能なものとして構築し、活用してきた上記の技術は捨てなければなりません。そうすれば、必然的に各論題に対して、これまでの技術論の眼鏡抜きの素の状態で、共通基盤とリサーチから推論を重ねて結論に至るという自然なプレパを実践せざるを得なくなります。その中で、これまでのコンパリ技術の地位(の一部)を占める普遍的な技術論が生まれれば良し、生まれなければそれもまた一興です。

ただし、そのような技術論が生まれるとして、もうかつての要素還元コンパリのようにあまりに普遍的な(普遍的すぎる)ものが生まれることは期待しない方が良いでしょう。今後発生する技術論は、特定の属性を共有するかなり限定的な状況においてのみ有用となるようなレベルの普遍性しか持ち得ないでしょう。

この手の話は私の領分から若干外れるので、眉唾気味で聞いていただきたいですが、私の見立てではコンパリが登場せずに決着するパターンが最も多いと思います。私の感覚では、現実の議論は大抵、「あいつのこの事実認識が間違っている(だから、あいつのイシューはゼロ)」とか、「あいつは、本当は善いことを悪いことを勘違いしている(だから、あいつのイシューはこっちのイシュー)」とか、「あいつは、メリットとデメリット両方が同等に発生する物事のデメリットの方しか見てない(あいつのイシューは俺のこのイシューで厳密に相殺になる)」みたいな相手のイシューをゼロにするパターンです。

そして、コンパリが登場する場合は、コンパリが登場するという結論でもって「これらを考慮して慎重に・・・」、「今後の研究を・・・」と濁して締めるパターンが多い。そもそも、コンパリが登場してしまうと、一見してどちらが重要か明確なレベルで差がある場合(コンパリをスピーチにする意義自体がほぼない場合)を除けば、どう頑張ってもどっちが上か決められないことがほとんどでしょう。そして、頑張らざるを得ない場合でも、要素還元には逃げられないわけですから、「相手のイシューは時間的に猶予があるから一旦こっちのイシューを回避してから考えよう」という風にイシュー全体の決着が付くコンパリでなければなりません。

とにかく、コンパリという領域でディベーターの技術差が現れることはまずないでしょう。それ以前のリサーチや思考の鋭さなどに領域で完全に決着は付き、コンパリはやったとしても挨拶程度のものになるでしょう。

(ここ、完成版ではもっと例を入れて充実させる予定です。まあ骨子は変わりませんが)

 

[1] 「タイムフーレム」なんかも入れる場合がありますが、ここでは要素に還元すること自体を批判するので特に触れません。

[2] 本来、「戦争系」などというレベルでイシューを括ること自体も問題です。戦争なんてどの国がどういう形で衝突するかによって帰結は大きく異なりますし、それはその他のイシューについても同様です。最終的にはイシューごとに見るしかありません。