『セオラー宣言』ドラフト置き場

R大学I氏は寿司が好きだった

フォーカス

正しいフォーカスはレゾリューションフォーカスです。なぜなら、AFFとNEGという立場が決められて、そこにレゾリューションが与えられたら[1]、フォーカスはそれだとしか考えられないからです。これは、ルールの表現に対する感覚の問題なのでこういう説明が本質です。

これに対して、こんな規定だけではフォーカスは決まっていないという説がネッターの中にはありますが、はっきり言って感覚がおかしい(というか、おかしくなってしまった)としか言いようがありません。もし、本当にAFFとNEG、そしてレゾリューションが与えられただけではフォーカスは伝わらないままだというなら、言語学や哲学の重要な課題になるでしょう。また、このレベルの表現で不明瞭だというなら、世の中は本来意味の伝わっていないはずの表現で溢れかえっていることになります。

この問題の難しいところは、最終的な結論はこの規定の表現に対する感覚に基づかざるを得ないことです。論理的にこのネッターの感覚がいかにおかしいのかを説明することは可能ですが、それはあくまでモデルに基づいて行うしかなく、最終的にはその説明によってネッターに正しい感覚を取り戻してもらう必要があります。

感覚が歪んだ原因

このような感覚の歪みが発生した原因はプランフォーカスの存在にあります。ほとんどのディベーターはまず、プランフォーカスは(本来荒唐無稽であるにもかかわらず)ルールの解釈としては可能なものとして教わってしまいます。そして、プランフォーカスを荒唐無稽であるとして一蹴できるディベーターはほとんどいませんから、正しいフォーカスとは何かなんてことを考える段階になるまでにはプランフォーカスの存在自体が相当すり込まれてしまっているため感覚が歪んでしまっているのだと思われます。

そもそも、プランフォーカスなんてものは、私が現役のころはそれがルールの解釈上可能かどうかという点についてはほとんど吟味されず、「カウンターワラントが可能になってしまうためレゾリューションフォーカスは実質的には運用不可能である」というカウンターワラントに関する誤解から、ほとんどのジャッジがプランフォーカスを採用していました。この実践上の要請によってプランフォーカスの存在は強く支えられており、それが解釈上可能かどうかという点については「ルールでフォーカスは明言されていない」程度の説明はされてはいましたが、ほぼ何も考えられていませんでした。

このように、そもそもプランフォーカスがその地位を確保できたのは不純な動機だったのであり、当初はプランフォーカスもディベートを教わる前の自然な感覚で解釈上の可能性を認められていたなんてこともありません。カウンターワラントの回避という運用上の要請によってプランフォーカスが主流のフィロソフィーとして強く確立される中で、このプランフォーカスに無理矢理正当性を与えるための言い訳として主張された「ルールではフォーカスは規定されていない」または「ルールではレゾリューションとプランのどちらがフォーカスであるかは規定されていない」という戯れ言が、あたかも疑う余地のない自然な感覚であるかのごとく錯覚されるようになったのです。

本来の感覚の源泉

では、ここから本来の感覚(つまり、レゾリューションフォーカスが伝わる感覚)を取り戻してもらうための説明を始めましょう。まずは、本来の感覚を生み出す源泉を分析します。

AFFとNEG、レゾリューションという規定によってレゾリューションフォーカスが伝わるのは、ある行為の対象を必要とする者にその対象となり得るものが与えられるからです。AFFとNEGはそれぞれ「肯定」と「否定」という行為を行う者を意味し、どちらもその行為に対する対象を必要としています。もちろん、競技として対立させるわけですからその対象はどちらも同じもので構いません。そこに、レゾリューションと称して、その行為の対象となり得る「命題」が与えられたら、それを無視するのは意味不明すぎます。だから、レゾリューションフォーカスが伝わるのです。

もちろん、これが本来の感覚のすべてではありません。この説明は、あくまで肯定と否定を「対象を必要とする行為を担う者」、レゾリューションを「その行為の対象となり得るもの」として抽象化したものであり、あくまでモデルに基づく説明です。ただし、この本来の感覚の源泉を考える上では、この説明が基づくモデルにおいて捨象された要素はそれほど大きな重要性は持っていないとは思います。もちろん、あくまでこの説明を受けた上で、現実のルールそのものに対する感覚が本来の形に戻ることがゴールです。

「肯定」を奴隷化するプランフォーカス

ここからは、プランフォーカスがいかに意味不明かを指摘することで間接的に本来の感覚に訴えていきたいと思います。

まず、プランフォーカスはAFFの行為である「肯定」をめちゃくちゃに濫用していることを指摘します。プランフォーカスは実は、AFFにレゾリューションの肯定を求めています。プランフォーカスではAFFのプランをトピカリティによって縛っているわけですが、トピカリティを満たすための要件は「AFFのプランが有益であった場合にレゾリューションは正しいと判断されること」としています[2]

しかし、この要件はAFFが「レゾリューションを肯定する者」として振る舞うことを前提としてしまっています。プランフォーカスでは、レゾリューションは、肯定の対象ではなく、AFFのプランを縛るガイドラインまたはAFFとNEGに認められるプランの領域を分けるバウンダリーとなっています。そのため、プランフォーカス下におけるAFFとレゾリューションの関係はルール上の規定からは導きようがなく、AFFのプランをトピカリティではなくノントピカリティで縛ってしまっても良いわけです(つまり、AFFがレゾリューションの政策を含まない政策パッケージをプランとして支持することを求めても良い)。

おそらく、この話を聞いた人の多くはぎょっとしたというか、まだ、ノントピカリティで縛っても良いなどという主張は意味不明だと感じているでしょう。その感覚こそ、本来はレゾリューションフォーカスしか受け取っていなかった証拠です。実は、「AFFのプランはトピカリティで縛られる」という定説は、レゾリューションフォーカスを前提としているのです。

レゾリューションフォーカスでは、AFFはレゾリューションを肯定する者であるため、「レゾリューションは正しい」と主張しなければなりません。そのため、AFFのプランはその有益性によってレゾリューションの正しさを証明できなければ、AFFとしてそのプランを支持する意味がなくなるのです。そもそも、このAFFの要件こそが「トピカリティ」です。この「AFFはレゾリューションを肯定する者である」という規定を失っているプランフォーカスでは、AFFの要件として「トピカリティ」を求める理由がなくなっているのです。AFFをノントピカリティで縛ることに違和感を覚えたのであれば、それは感覚的にプランフォーカスを拒絶しているのです。

プランフォーカスでは、AFFをトピカリティで縛るために無意識にAFFを「レゾリューションを肯定する者」としてしまったわけです。これは言ってみれば、フィロソフィー構築において、ルール上の規定であるAFFから得られる「肯定」というアイテムをレゾリューションに対して使ってしまった状態です。プランにフォーカスさせるためには、プランに「肯定」を使う必要がありますが、もうレゾリューションに使ってしまってありません。レゾリューションがバウンダリーであれば、反則で「肯定」と「否定」をどちらも2回ずつ使って、レゾリューションとプラン両方で対立させることもできますが(?)、もはやプランフォーカスではなくなっていますし、どうやって判定するのかも不明です。レゾリューションがガイドラインであれば、NEGの議論をAFFのプランに向けるために「否定」はプランに使われてしまい、AFFがレゾリューションを(あるいは反則の2回使いでプランも)肯定するのに対し、NEGはプランを否定するという非対称性が発生してしまいます。

政策論題以外だとどうなるか

次に、論題が政策論題ではなかった場合にフォーカスはどう感じられるかを考えてみましょう。

たとえば、「地動説は正しい」という論題だった場合はどうでしょうか。これは政策論題ではありませんから、プランという概念は設定できません。この場合でも、本当にフォーカスは伝わらないなどという感覚は生じうるでしょうか?

論題の性質が変われば感覚も変わると思われるかもしれませんが、政策論題でなくても命題でさえあれば「肯定と否定の対象になれる」という点についてはまったく同じ性質を共有しているわけですから、「肯定と否定の対象になれるものが与えられた場合にフォーカスはどう感じられるか」の検証としては政策論題以外の論題でも有効なはずです。もし、政策論題以外の場合にフォーカスは定まっていると感じられたのであれば、余計な謎理論を吹き込まれていない分、そちらの感覚の方が本来のものでしょう。

これに対して、「政策論題以外の場合は肯定と否定の対象になれるものがレゾリューションしかないためフォーカスは規定されていると感じられるが、政策論題の場合はプランも対象となれるためフォーカスがまったく不明ではないが「フォーカスはレゾリューションかプランか」という選択の問題が生じる」という反論があるかもしれません。しかし、政策論題以外でも、プランはありませんがレゾリューションの意味(俗に言うインタープリテーション)はフォーカスになれるので、フォーカス候補はレゾリューションに限られているわけではありません。

実は、これは嘘です。この例のレゾリューションでも、というかどのレゾリューションでもフォーカス候補は無限に存在します。レゾリューションに関係なく、どんな命題や政策でも(もちろんそれ以外にもさまざまなものが)肯定と否定の対象にはなれるので、フォーカスで問題となるのはレゾリューションにどのような役割を与えるかなのです。そのため、肯定と否定の対象になれるものとセットでレゾリューションの役割も与えられるのであれば、どんなものでもフォーカスの問題は解決できるのです。

ここで挙げた、レゾリューション、インタープリテーション、プランが「単なる肯定と否定の対象になり得るもの」ではなく「フォーカス候補」と感じられるのは、それらがレゾリューションに与えられる役割も示唆しているからです。レゾリューションにフォーカスする場合は単純明快でレゾリューションの役割はフォーカスそのものです。インタープリテーションは「レゾリューションが示しうる意味の1つ」という意味ですから、必然的にレゾリューションによってその候補は限定されます。そのため、インタープリテーションにフォーカスするということは、自動的にレゾリューションの役割はAFFがフォーカスとして選択できるインタープリテーションの範囲の限定となり、それをガイドラインとするかバウンダリーとするかは恣意的に決定されます(今はインタープリテーションフォーカスについては理解できてなくても構いません。別の節でまた解説します)。プランの場合は、トピカリティによってAFFがフォーカスにできるプランの範囲を決めるガイドライン(またはNEGの選択肢も制限するバウンダリー)です。

しかし、また嘘を付いてしまっていますが、実はプランフォーカスについてはこんなにすっきりレゾリューションの役割が与えられるわけではありません。繰り返しになりますが、レゾリューションにフォーカスしない場合、肯定と否定は(レゾリューションではない)フォーカスに向いているわけですから、レゾリューションに対してはAFFとNEGがどういう態度を取るかは何の手がかりもありません。そのため、プランフォーカスでは、なぜAFFのプラン選択を制限するのが「トピカリティ」であるのか(なぜ「ノントピカリティ」ではないのか)という点については何の根拠もありません。つまり、プランにフォーカスすることで自動的にレゾリューションの役割は最低でもAFFがトピカリティに縛られるガイドラインバウンダリーには絞られるというのも完全な欺瞞であり、本当はプランにフォーカスするだけでは「AFFを縛るのはトピカリティかノントピカリティか」という点も曖昧なままなのです。

プランフォーカスという言葉を聞くだけで、ディベーターは単に「プランにフォーカスする」ということ以上のものを受け取っているわけですが、その部分は「完全に」ディベート技術論の蓄積によって構築されたものです。プランフォーカスからレゾリューションによるAFFの縛り基準をノントピカリティに変更しただけの枠組みも、プラ「ソ」フォーカスなどとしてプランフォーカスと同様に構築されていれば、現在のプランフォーカスとまったく同じ地位を得ていたでしょう。

そもそも、ルールではレゾリューションフォーカスかどうかは伝わらないという前提は、レゾリューションが「肯定と否定の対象である」という軛から解放されること、そして肯定と否定の対象が失われることを意味しますから、レゾリューションの役割とフォーカスの決め方を縛るものなど何もないのです。プラ「ソ」フォーカスに限らず、どんな決め方も候補になるわけですから、他にもある程度の競技性を保てるフォーカスの決め方も見つけられるでしょう。

結局、プラ「ソ」フォーカスではなくプランフォーカスが発生し、しぶとく生き残って、レゾリューション以外では唯一のフォーカス候補としての地位を確立されたのは(本当はインタープリテーションの方がプランより上ですが)、ただ単にAFFの縛り基準がトピカリティであることによって「ルールを根拠にしてレゾリューションの役割を決定できている」と錯覚させることに成功しただけに過ぎません。繰り返しになりますが、もちろんその根拠である「肯定」はプランに向けているため、AFFの縛り基準がトピカリティであることはルールに基づかずディベーターが勝手に決めたものです。つまり、プランフォーカスなどというものは、本質的にはプラ「ソ」フォーカスなどと同レベルの荒唐無稽な存在であり、レゾリューション以外にも同等のフォーカス候補があるなどというのはやはり戯れ言です。

余談

長々と語りましたが、ディベートコミュニティの視点から見ればこれは大した問題ではなく、仮にプランフォーカスの呪いが解けなくてもルール改正で対応してしまえば終わりです。現行ルールでのトピック設定方法(命題形式のレゾリューション)と立場の規定方法(「肯定側(Affirmative)」と「否定側(Negative)」)は、競技制でもなんでもありませんから、フォーカスの曖昧性が生じないようにルール改正すれば良いのです。

「現行ルールではフォーカスは規定されていない」という主張はルールの不備の指摘なわけですから、その主張に対する正しい対応はルール改正であって、フィロソフィーの混沌の許容ではありません。ルールは聖書でもコーランでもありませんから(競技制ですらたとえるなら憲法のレベルです)、文言の不備[3]も認めた上でルールの解釈を頑張る意味などありません。

省察』との棲み分けのため、本書はあくまで「現行ルール下」でディベーター個人に何ができるかに焦点を当てているので、どうしてもこういう面倒くさい話が出てきてしまいますがご容赦ください。ただ、こういった話を理解することもセオラー一人一人がセオラーであるためには重要なことなのです。

 

[1] ちなみにNAFAルールでは「論題(resolution)の下で肯定側と否定側に分かれて行われる。」という文言です。特に問題があるとは思えません。

[2] プランの動作とレゾリューションの動詞、プランの対象とレゾリューションの目的語という風に、レゾリューションのセンテンスを構成する要素ごとの対応関係をチェックしていく考え方や表現方法はありますが、それはあくまでプランの有益性とレゾリューションの命題としての正しさのつながりを示す方法の1つとして採用されており、プランフォーカスにおいてレゾリューションが特殊な扱いを受けているわけではありません(この要素ごとの対応関係で表現する方法はレゾリューションフォーカスでも使えます)。もし、本当に要素ごとに対応関係をチェックしているとしたら、レゾリューションをセンテンスとして見ていないわけですから、shouldの存在や語順、そして何よりピリオドの存在を無視している馬鹿げた手法です。

[3] もちろん、聖書やコーランの場合はその内容が正しいことは大前提で解釈するわけですから、厳密には「文言の不備」は存在せず「一見文言の不備に見えるもの」があるだけです。だからこそ、その存在も頑張って織り込んで解釈する意義があります。