『セオラー宣言』ドラフト置き場

R大学I氏は寿司が好きだった

バウンダリー

バウンダリーとは、ざっと言えば、言葉が意味するものと意味しないものを分ける境界線のことです。たとえば、「魚」という言葉が意味するものにはマグロ、ウナギ、シラスなどが含まれるため、それらは「魚」のバウンダリー内とみなされ、うなぎパイ、こっこ、お茶などは含まれないため、それらはバウンダリー外とみなされます。ちなみに、バウンダリーは「クリアカットバウンダリー」と呼ばれることが多いですが、「クリアカット」の部分には意味がないので本書では単に「バウンダリー」とします。

バウンダリーは、必ずしも国境線のようにきれいな線で内と外を分けるわけではなく、いろんな分け方が存在します。

最もバウンダリーが分かりやすいのは固有名詞でしょう。たとえば、「姫路」という言葉が指すのはただ姫路市という地域のみで、松山や和歌山、もちろんクッキーや焼き肉などの姫路市以外のすべてのものはバウンダリーの外にあります。むりやり図示するとすれば、下図のようになります。白いゾーンがバウンダリーの内側、黒いゾーンがバウンダリーの外側です。バウンダリー内は姫路市のみなのでほぼ点になります。

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「姫路」のバウンダリー

これは、バウンダリーが明確な線でしかもその内側には1つの事物しかないというかなり極端な例です。次はもう少しマイルドな例を挙げましょう。「100以上」という言葉は、バウンダリーの内側に100および100より大きいすべての数字が含まれ、それ以外はすべて外側にあります。このバウンダリーは完全に明確で、99.999999999、100.0000001など限りなくバウンダリー内に近付いているものであっても明確にそれらがバウンダリーの内と外どちらにあるかを判断できます。下図のように図示できます。

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「100以上」のバウンダリー

これらの例のようにバウンダリーが完璧に明確にはならないケースもあります。たとえば、「100ぐらい」という場合、99.9999999などの非常に100に近いものは明確にバウンダリー内、0などの非常に遠いものは明確にバウンダリー外と言えるでしょうが、96などのように微妙な距離感のものはどっちとも言えません。この場合、白と黒の明確なゾーンもありますが、バウンダリーがはっきりした線ではなくどっちつかずのグレーゾーンを示す帯になります。

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「100ぐらい」のバウンダリー

これらが代表的なバウンダリーの形ですが、他にもパターンはあります。たとえば、「粋」という言葉の場合、グレーゾーンしかありません。ある時点において一般的に明確に「粋」と呼ばれるもののパターンは確立されるかもしれませんが、それは確立されたからにはもはやどっかに外しや裏切りを入れていかないと野暮とも言えてしまうので、明確に白と言えるパターンは確立されたと同時に黒とも言えるようになってしまうわけです。結局、何を「粋」とするかは究極的には完全な主観の問題であり、客観的にはグレーゾーンしかなくなります。他にも、白しかない言葉や黒しかない言葉も作れますし、グレーと黒しかないという言葉もあります。

ここで言う白、黒、グレーという3つのゾーンは、ディベートで言えばそれぞれトピカルなゾーン、ノントピカルなゾーン、不明なゾーンということになります。そして、バウンダリーの議論というのは、レゾリューションのバウンダリーをより正しく分析し、そのより正しく把握されたバウンダリーに基づいてラウンドにおける議論全体とレゾリューションとの合致を確認しようとする議論のことです。

ここまでの説明を聞いただけでは、バウンダリーの議論は、言葉の意味を分析することの難しさはあっても、バウンダリーという概念自体はごく単純なものに思えるでしょう。確かにバウンダリーの概念自体はごく単純なものです。要はただ言葉の意味を分析するだけの話ですので。ですが、ディベートにおけるバウンダリーの議論においてはバウンダリーを分析する対象がレゾリューションという「センテンス」であり、そのバウンダリーとの距離を分析する対象がラウンドの議論全体(あるいは議論の結果として支持される政策)であるため、上記の例ほどバウンダリーの分析は単純ではないのです。

しかし、ネッターはプランフォーカス的解釈をしてしまっているため、レゾリューションをセンテンスとして見ず、分解して上記の例のような単純なレベルでバウンダリーを分析してしまいます。主語の分析の場合にはおおむね、ネッターの分析もたまたまセンテンスの分析に合致するのですが、主語以下の部分に着目した場合はまず誤りが発生します。

たとえば、「消費税を大幅に上げるべきである」というレゾリューションの場合、ネッターはまず「大幅に」という語に食いつき、そのバウンダリーを分析するでしょう。その分析はこうです。「大幅に」という語は上記の「100ぐらい」のように白、黒、グレーにゾーンが分かれており、増税率が高いほど白ゾーンの中心に近付いていく。仮に10%以上の増税が白ゾーンとすれば15%増税や30%増税など10%以上増税する政策1つ1つがトピカルな政策であり、AFFはその政策のいずれかに対してADを付ける必要がある。増税率が10%未満の政策は黒またはグレーゾーンに入ってしまうためノントピカルである。てな具合です。で、おそらくNEGは「大幅に」という語のバウンダリーのグレーゾーンの朧げさに着目し、白ゾーンにいると確定できない増税率を前提にするAFFに対してそれがグレーゾーンにあることを指摘するチャンスを狙うという感じでしょう。

しかし、これではセンテンスの意味のバウンダリーに対する議論の関係性の分析にはなっていません。これは、単なる「大幅に」という語に対する特定の増税率の関係性の分析です。

レゾリューションのバウンダリーの分析における「大幅に」と増税率の正しい役割はこうです。まず、「大幅に」抜きで考えると、「上げる」の程度(つまり増税率)について一般性が求められており、その一般性の程度によってバウンダリーは白、黒、グレーにゾーンが分かれています。議論の結果支持される政策における増税率が一般的であるほど白ゾーンの中心に近付きます。たとえば、支持される政策の増税率が1~100%の場合(つまり、「1~100%」の増税は「上げない」よりも望ましいとする議論の場合)の方が、支持される政策の増税率が1~10%だけの場合よりも白ゾーンの中心に近付きます。そして、「大幅に」があることによって、この一般性が求められる増税率の範囲がずれます。「上げる」だけの場合はバウンダリーの中心に近付くために程度を高めるべき要素は「上げない」よりも望ましい増税率の一般性でしたが、「大幅に」があることによってその要素が、「大幅に上げない」よりも望ましい増税率の一般性にずれるのです。仮に「大幅な」増税が10%以上の増税であるとすれば、AFFは「大幅に上げない」よりも望ましいと結論付けられる「10%以上の増税」の一般性の程度が白ゾーンに入るほど高い議論を行う必要があります。この場合、NEGが「大幅に」の「語としての」バウンダリーの朧げさを利用するとすれば、プランフォーカス的解釈のようにその朧げさをレゾリューションのバウンダリーの朧げさとするのではなく、白ゾーンに入るための要素である一般性を求める増税率の範囲の朧げさとして利用しなければなりません。

簡単にまとめれば、この例における「大幅に」はあえてそれ自体の機能を説明するとすれば、「上がる」の程度の一般性によって発生したバウンダリーに味付けするものであって、それ自体がバウンダリーを引くものとして説明するのは不適切であるということです。

ここで述べた注意点は、要するにプランフォーカス的解釈はダメだということであり、「プランフォーカス的解釈の呪い」によって解消されている問題なのです(実質上、内容的にも「プランフォーカス的解釈の呪い」の繰り返しに近いです)。しかし、プランフォーカス的解釈は非常に深くディベーターの意識に根を張っており、完全に脱却することは難しく、いろんな場面で逐一注意していくべきでしょう。

 

※図の適当さはご愛嬌