『セオラー宣言』ドラフト置き場

R大学I氏は寿司が好きだった

パラダイム

パラダイムとは・・・。何でしょうか。これに答えることは不可能です。なぜなら、パラダイムの定義が錯綜しているからです。たとえば、「ポリシーメイキングパラダイム」は単なる「ランゲージは認めん!」というヒステリーを意味する場合もあれば、そこから多様な規範が引き出される場合もあります。場合によっては、フォーカスとパラダイムがごちゃごちゃにごった煮状態で語られたりもります。実際には、パラダイムは各人がオレ流の定義で使っているだけという状態です(オレ流でも明確な定義が本人の中にあれば良いですが、それすらない場合もあります)。

省察』と本書では基本的にすべて日本ディベート界の技術論のみにフォーカスしていますが、この定義がない状態ではちょっと解説に困るので、ここでは例外的にアメリカ式のパラダイム論を取り上げて叩きましょう。もちろん、アメリカなんてどうでも良く肝心なのは日本ディベート界の更正ですが、アメリカ式のパラダイムの定義に基づいて日本で「パラダイム」の名の下に犯された、そして今後犯されるであろう誤りを上手くカバーできればと思います。

とりあえず、私の手元にあるディベート関連文献からパラダイムの定義を述べている箇所をいくつか引いてみます。

David A. Thomas, "Glossary of Debater Terms," in Advanced Debate Readings in Theory Practice & Teaching Third Edition, ed. by David A. Thomas et al., p.553

  1. Q) An intellectual model or perspective which serves to unify a discipline. In social sciences, there are usually multiple paradigms within disciplines because it is difficult for any one paradigm to achieve pre-eminence. In policy debate, some leading paradigms include policy systems analysis and hypothesis testing. (UQ

Richard E. Edwards, Competitive Debate The Official Guide, p.342

  1. Q) A paradigm is an interconnected web of assumptions, Debate theorists in policy debate use the term to apply to the assumptions made by the debate judge when approaching a debate. (UQ

松本茂ほか著『英語ディベート 理論と実践』(玉川大学出版部、308頁)[1]

  1. Q) ディベートにおけるパラダイムは審判がそれを通して試合を見るための知的枠組み(frame of reference)であり、異なった枠組みを通して見た場合、同じ議論を見ても異なって見えることもありうるのである。(UQ

model、perspective、assumptions、枠組みといった表現が使われていますが、大体「ディベートをどう捉えるか」という問いに対する各ジャッジの答えがそのジャッジのパラダイムと言って良いでしょう。たとえば、ストックイシューパラダイムディベートを「裁判」として捉え、ポリシーメイキングパラダイムは「立法・政策決定」、ハイポセシステスティングパラダイムは「仮説検証」と捉えるという具合です。

こんなパラダイムもあります。

松本茂ほか著『英語ディベート 理論と実践』(玉川大学出版部、311-312頁)[2]

  1. Q) Game Theory Paradigm(ゲーム理論審査哲学)

To a "game theorist," theoretical debate issues should be decided according to the needs of the debate "game." This paradigmatic position analogizes debate to a game or sport and recognizes that all such games require certain rules to preserve fair play. Fairness therefore becomes paramount, and, contrary to stock issues, all issues are open to dispute and alteration in order to advance the objectives of the game. While relatively few judges identify themselves as strict game theorists, judges utilizing other general paradigms may turn to game theory to resolve individual issues in a manner that is fair to both sides of the debate. (Cross, 1987, p. 11)

(大意:「ゲーム理論家」には、理論的争点はゲームの必要性に従って判断されるべき存在である。彼らは、ディベートをスポーツにたとえて、すべてのゲームはフェアプレーを保障するルールを必要とすることを認めて、フェアプレーを何ものにも優先させる。徹頭徹尾のゲーム理論家と称する審判は比較的少数であるが、他の哲学を信奉する審判でも公平な方法で個々の論点を決議するためにゲーム理論を用いることがある) (UQ

"analogizes debate to a game or sport"という部分が奇妙です。ディベートは、「ゲームまたはスポーツ」そのものであって、類推として「ゲームまたはスポーツ」(以下「競技」)と捉えるというのは違和感があります。ディベートは競技とは呼べないという人もいるかもしれませんが、参加要項が出されてそれに応募し実際に参加するというプロセスは競技のそれと同一であり、手続きとしては完全に競技です。

そのため、ディベートとは競技そのものであって、「裁判」などのまったく別の活動をモデルとした枠組みで捉えようとすること自体が間違いなのです。ただ、「参加要項が出されてそれに応募し実際に参加する」というプロセスを素の状態で進めれば良いのです。敢えて言うなら、これは「素パラダイム」といったところでしょう。一体、「参加要項が出されてそれに応募し実際に参加する」というプロセスのどの時点において、「あ、枠組みがないとあかんやん」と感じるのでしょうか。そもそも、そんな枠組みが本当に必要と言うなら、どの競技でも必要になるはずです。

では、ディベートを捉える枠組みとして素パラダイム以外のパラダイムを採用してしまうことの問題を具体的に説明しましょう。素パラダイム以外を採用するということは必然的にルールを無視することになります。たとえば、ストックイシューパラダイムであれば、ディベートは「裁判」でありSQが「被告」となるため、SQには「無罪推定」があるとされます。そのため、AFFは有罪の要素としてのストックイシュー「シグニフィカンス、インヘレンシー、ソルベンシー、デザイアビリティ、トピカリティ」それぞれで勝つ必要があるとされます。これが、単にルールから導かれた競技の枠組みを表すために「裁判」の比喩を使用しているのであれば構いません。それであれば、各パラダイムは単にディベート談義をスムーズに進めるために便利「かもしれない」言葉に過ぎません。しかし、本当に「裁判」のあり方から競技の枠組みを導いているのであれば、裁判のあり方とルールが競合する場合には前者が優先されるため(後者を優先するならただの素パラダイムです)、ルールを無視していることになってしまいます。

今後、日本のディベート界でパラダイムという語がどのような定義で定着していくのか(あるいはまったく定着しないのか)は分かりませんが、ルールに取って代わってしまう枠組みの導入がパラダイムの名の下に正当化されてしまう危険性には注意するべきでしょう。ただ、個人として気をつけることはあくまで「ディベート術語から考えない」という原則をパラダイムにも適用すれば良いだけです。

 

[1] これは日本語文献ですが、中身はただのアメリカ式のコピペです。

[2] これは日本語文献ですが、中身はただのアメリカ式のコピペです。