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R大学I氏は寿司が好きだった

ディフィニションとインタープリテーション

ディフィニションあるいはインタープリテーション

「ディフィニション」というのは、トピカリティ関連でよく出される、辞書が出典のエビデンスのことです[1]。また、そのエビデンスの内容を反映して解釈したレゾリューションの意味のことを指して「ディフィニション」と言うこともあります。後者の意味の場合、「インタープリテーション」と呼ばれることが多いでしょうか。

ネッターは、辞書の文言をその語の「意味そのもの」として扱います。これが盛大な間違いなのです。辞書の文言は意味そのものではなく、「ある語の意味を他の語によって表そうとしたもの」に過ぎません。そもそも、意味そのものは、完全に同義となる表現がない限り他の語で表すことはできません。ある語の意味を他の語で表すには、ある程度の朧げさを許容するしかないのです。

そのため、辞書の文言はそれが置かれた状況に応じてさまざまな朧げさが生じるのです。たとえば、携帯性を重視した辞書などの場合、少ない語数でできる限り意味を広くカバーしようとするため、その文言自体には本来その語の意味には含まれない事物が多く合致する傾向があります。逆に、代表的な特徴を細かく説明しようとした場合、その語の意味に含まれる例外的な事物が文言に合致しなくなります。

例として、「lemon」という英単語を辞書で引いてみると、以下のような文言があります。

①an oval fruit that has a thick, yellow skin and sour juice[2]

②a yellow citrus fruit that has a sour taste[3]

①の文言には、黄色のパッションフルーツなど、本来「lemon」が意味しない事物も合致します。②の文言の場合であれば、「柑橘類」という条件があるため、パッションフルーツは除外できます。また、どちらの文言でも、皮が緑のレモンなど、本来「lemon」が意味する事物の中に合致しないものが出てきます。

辞書はこのような朧げさが生じることを前提で作られていますし、辞書を使う側もそんなことは分かっていて、その文言はあくまで意味そのものではなく「意味を把握するためのヒントの1つ」として利用することを前提にしています。上記の「lemon」についての2つの辞書の文言は、どちらも意味そのものとはかけ離れていますが、意味を把握するヒントとしては有用であり、辞書としては問題ありません。

もちろん、意味を把握するためのヒントは辞書の文言だけではありません。ある語の細かなニュアンスを説明した語学教材、類義語間の違いを細かに説明した類語辞典、新聞などの各種媒体から得た用例などもヒントになります。九鬼周造『「いき」の構造』みたいなのも、日本語の「いき」という語の意味を深く把握したい場合には有用だったりするでしょう。もちろん、書籍などで調査しなくても、自分がすでに知っている(または作れる)「明らかに正しい/間違っていることが確信できている用例」なんかもヒントとして利用できます。辞書の文言は、あくまでこのような数あるヒントの内の1つなのです。

そして、こういったヒントがどう役に立つかは、対象とする語、元々ある知識、ヒントの性質など、状況によって異なります。ディベートでは、「lemon」という語を対象とする場合であれば、元々その意味は共通基盤だけでもかなり明らかになっているため、上記の例のような辞書程度では何の役にも立ちませんし、辞書以外のヒントからも足しになるような情報を得られる余地は小さいでしょう。それに対し、日本語の「いき」についてであれば共通基盤で把握している意味は「lemon」よりはかなり朧げであり、そもそもその意味はかなり分析が難しそうなので、辞書の文言でももしかしたら何か得るところがあるかもしれませんし、九鬼周造『「いき」の構造』なんかはかなり足しになるでしょう。そして、共通基盤ではまったく未知の語の場合であれば、辞書の文言だけでも大きな進展(ちゅーか、第一歩)になります。

ネッターは、このような現実からはかけ離れて、辞書の文言を意味そのものと扱うわけですが、ネッターの悪弊に関してはさらに2点ほど説明が必要です。

1点目は、ネッターは各辞書の文言をそれぞれ独立した「意味そのもの」として扱うため、辞書の数だけ意味が増殖するということです。上記の「lemon」の例で言えば、①から「柑橘類」という制限のない意味、②から「柑橘類」という制限のある意味が独立したものとして読み取られ、それぞれが「lemon」という多義語が持つ複数の意味の内の1つであると認識されてしまいます。言うまでもないですが、これは間違いです。①と②は、「lemon」が持つある1つの意味を別の表現で記述したものに過ぎません。

もう1点は、ネッターは辞書のエビデンスを読まれると、その語の意味に関する共通基盤を亡き者にしてしまうという点です。「lemon」については、共通基盤ですでにそれが「柑橘類」であることは分かっていますが、①がエビデンスとして読まれるとその共通基盤は消え、①の文言が完全に「lemon」の意味になってしまうため、柑橘類という制限はなくなります。これも間違いです。共通基盤は、共通基盤外のエビデンスや推論によって否定されることはあっても消えるなんてことはあり得ません。

最後に確認としてまとめましょう。まず、語の意味は他の語で完全に表すことは不可能であり、意味そのものはさまざまなヒントから把握していくしかありません[4]。そして、辞書の文言はそのヒントの1つです。そのため、辞書であろうが、その他の文献であろうが、いくらエビデンスを読んでも、(それぞれが多義語の異なる意味を対象としていない限り)それはあくまで対象とする語のある1つの意味に関するヒントが蓄積していくだけです。それぞれのヒントが別々の独立した意味を示唆することはありません。また、それらのヒントは、共通基盤ともなんら競合するものではありませんから、共通基盤とともに蓄積します。

術語整理

「ディフィニション」と「インタープリテーション」は、エビデンスや意味などの「事物」ではなく、ヒントを出して語の意味をより明確にしていく「行為」と定義するのが一番すっきりすると思います。その行為によってより明確にしようとしているレゾリューションの意味(上記の「解釈したレゾリューションの意味」としての「インタープリテーション」と同じ)については、単に「meaning」でいけますし。

ただし、その定義まで誘導するのは骨が折れるでしょうし、これらの術語はネッターの定義でも特殊な機能が与えられていなければ無害ですので、その特殊な機能さえ剥がせれば術語整理は無用です。

なので、辞書が出典のエビデンスを指す「ディフィニション」は、本節の内容さえ理解させれば、単に特定の特徴を持つエビデンスを指す術語になるので定義自体はそのままでも構いません。「インタープリテーション」については、そのままでも単なる「meaning」なのでガン無視で良いでしょう。要は、本節の内容さえ分からせれば、術語整理は考える必要はありません。

 

[1] 出典が辞書ではなく、対象となる語に対して「辞書的定義を記載している文献」の場合もありますが、ここでは便宜上それらもまとめて「辞書」とします。

[2] Cambridge Advanced Learner's Dictionary http://dictionary.cambridge.org/dictionary/british/lemon

[3] Merriam-Webster's Online Dictionary http://www.merriam-webster.com/dictionary/lemon

[4] 完全な同義となる表現で表したとしても、その表現の意味を知る必要があるので、結局いつかは完全に同義となる表現が存在しないところに行き着きます。