『セオラー宣言』ドラフト置き場

R大学I氏は寿司が好きだった

日常会話とレゾリューションの違い(加筆予定)

日常会話(読み書きも含む)とレゾリューションは違います。にもかかわらず、ネッターは日常会話を前提にした分析をレゾリューションに対して過剰に応用しています。

まず、定義しだいではレゾリューションも日常会話に含まれてしまうため、日常会話という言葉を定義しておきましょう。ここでは、「日常会話」は「話者(筆者)が何かを伝えようとして言った(書いた)言葉」とします。もちろん、この定義は、実際にディベーターがトピカリティの議論などで言及するところの「日常会話」をより明確に表したものであり、この定義の下でレゾリューションとの違いを論ずることでネッターの誤りを分析できます。

日常会話とレゾリューションの大きな違いは、聞き手が把握しなければならないものが、前者では話者の「意図」であるのに対し、後者では文の「意味」であるという点です。ここでいう「意図」とは文によって話者が伝えようとしている内容であり、「意味」とは文が文法的に表しうる内容のことです。

日常会話は、多くの場合、たとえ意味が意図とはずれていても有効です。「有効」とは、その発言をしないよりはした方が良いということです。たとえば、話者が「汚名返上したい」という意図を伝えたい場合、「汚名挽回したい」という発言をすると意味が意図とは逆になっていますが、大抵の状況では文脈、この熟語が誤用されがちである事実などから聞き手は話者の意図をほぼ間違いなく把握できます。そのため、この発言は、意味は間違っているのですが、言わないよりは言った方が伝えたいことを伝えられる可能性があるという意味で有意義なのです。また、皮肉の場合には、話者がわざと意味を意図からずらしていますが皮肉ももちろん有効な発言です。

また、日常会話では意味が存在しない文ですら有効であることが多いです。たとえば、「食べる桜エビしらす」という文には意味は存在しませんが、静岡観光に来ている状況であれば「桜エビとしらすを食べたい」、桜エビの生態について話している状況であれば「桜エビはしらすを食べる」という風に文脈から意図は推測でき、言わないよりは言った方が良いでしょう。

そもそも、裁判での発言や契約書の文言など特殊な状況を除き、意味が意図とずれてしまったり、意味が存在しなかったりしても、大したデメリットはない上、聞き手から聞き返して確認したり、話者が言い直したりすることも可能です。そのため、日常会話ではかなり朧げな発言でも大抵は言うことのメリットはデメリットを上回るのです。

このような事情があるため、日常会話における文は、その意味は限定的ですが、状況によって伝えうる意図は無限に広がっているのです。

一方、レゾリューションはまったく事情が違います。まず、そもそもレゾリューションには話者がいないため[1]、意図も存在しません。そのため、意図と意味のずれという事態は発生しようがなく、「汚名挽回するべきである」というレゾリューションはただその字義通りの内容(つまり意味)において有効なのです。日常会話であれば字義通りの内容を超えてそれとは異なる意図を読み取っていきますが、レゾリューションの場合は「汚名挽回」と書いてあったら聞き手(ディベーター)は本当に「汚名を返上する」という政策の是非を問うことしかできません。それを「汚名返上」に読み替えてディベートしたりすればルール違反になってしまいます。また、「食べる桜エビしらす」のように意味が存在しない文について、AFFとNEGという立場を取りようがなく、レゾリューションとしては完全に無効です[2]

そのため、意味はあくまで意図を探るための手がかりである日常会話とは異なり、レゾリューションの場合は意味がすべてであり、字義通りの内容以外を議論する余地はありません。

トピカリティの分析などでは、日常会話のある状況において聞き手が受け取りうる意図を意味と混同し、その意図をレゾリューションの可能な意味の1つとしてしまう混同が頻繁に発生します。日常会話での有効性をもって、レゾリューションでの有効性としてしまっているため、これでもオーケーというわけです。

象徴的な例を挙げましょう。私自信が現役時代によく出されていた議論です。それは、「英語の冠詞は難しいから間違っても構わない」というクレームでほぼ同じこと言っているエビを読んできます。この議論が言いたいことは、(おそらく出していた当人は理解できていなかったでしょうが)具体的には「レゾリューションの可能な意味には、レゾリューション中の冠詞を別の冠詞に置き換えた場合の意味も含まれる」ということです。たとえば、レゾリューション中のある定冠詞を不定冠詞に置き換えた場合の意味もレゾリューションの意味の1つであるという主張です。

この間違いは典型的な日常会話とレゾリューションの混同に端を発しています。この議論に使われているエビは「英語の冠詞は難しいけど、多少間違っても誤解されることはあまりないから怖がらないでどんどん話そう」みたいなことを言っています。この内容は問題ありません。冠詞を間違うと意図と意味はずれてしまいますが、冠詞の間違いは聞き手側で理解して意図を正しく把握してくれる場合が多いでしょう。

このエビが言っていることはあくまで日常会話の話であり、冠詞を間違うことを恐れて発言しないよりは間違ってでも発言した方が良い、つまり間違っても意図は伝わる可能性が高いため有効であるということです。これは、文の意味が問題となるレゾリューションとはまったく関係のない話です。つまり、この議論は日常会話での発言における「間違っても良い」をレゾリューションの意味の分析における「間違っても良い」と混同してしまっているのです。

ディベーターによるレゾリューションの分析において考慮できるのは字義通りの内容だけであり、冠詞の用法を誤解した解釈はレゾリューションの「意味」ではなく無効です。

ここまでは、日常会話における意図と意味がずれている状況と意味が存在しない状況について説明しましたが、次にもう少しマイルドな状況として「命題として評価可能な意味は存在しない状況」について考えてみます。たとえば、「日本はケインズ的国家になるべきである」といった文がそれに当たります。「ケインズ的国家になる」の意味は、おぼろげなイメージは掴めますが、命題として検証できるレベルの具体性は持っていません。また、何を持って「ケインズ的」とするかは人によって異なり、おぼろげなイメージすら共有されていないと言っても良いかもしれません。しかし、日常会話であればこの語が有効に活用できる状況はいくらでもあります。

おぼろげなイメージだけ伝われば良い状況がそれです。「ケインズ的国家になる」の意味はおぼろげかもしれませんが、「少なくとも最小国家や無政府状態はそれにあたらない」などの確実に伝わる部分もあり、それだけで事足りる状況やそれ以上の具体性を求めない状況であれば言わないより言った方が良いのです。これまで何回か例に挙げた「粋」という言葉が使われる状況を想像すると分かりやすいでしょう。

あとは、文脈によって語自体のイメージから発展して、具体的な意味が与えられる状況があります。たとえば、自分達の間でのケインズ像がはっきり確立された勉強会で参加者が「ケインズ的国家になる」と言った場合、「ケインズ的国家になる」は特に定義されなくてもそのケインズ像を反映して比較的具体的な意味を持つでしょう。場合によっては、命題として検証できるレベルの具体性のある意味で使われることもあるでしょう。

このように日常会話では命題として検証可能な意味を持たない語の出番もありますが、レゾリューションではまったく用事がなくなってしまいます。レゾリューションの意味は検証可能な意味なしで事足りることはあり得ず、また文脈も存在しないため検証可能な意味に発展することもないからです。

 

[1] 念のため確認しておきますが、フレーマー(レゾリューションの作成者)はレゾリューションの話者ではありません。フレーマーは敢えて言うなら、レゾリューションが「○○○は○○○するべきである」の場合における「この大会のレゾリューションは「○○○は○○○するべきである」でやってくれ」という発言の話者であって、「○○○は○○○するべきである」という文によって何かを伝えようとしているわけではありません。

[2] 意味が存在しないということは命題が存在しないことと同義であるため、挨拶文などの命題が存在しない文と同じ状態になってしまいます。