『セオラー宣言』ドラフト置き場

R大学I氏は寿司が好きだった

ネッターは、「具体的であること」を信奉しすぎです。何か不明点が見つかると、すぐにそのイシューを劣等生扱いしすぎです。具体性は「状況」によって、ある一定の水準を満たすことが求められたり、より水準が高い方が好ましかったりするだけです。逆に、具体性の追求がまったく無意味な状況もあります。

唐突ですが、ヘンリー・ハズリットの『世界一シンプルな経済学』から引用します。以下のハズリットの主張はディベート的に言えば、「アメリカはセーターに五ドルの関税をかけるべきだ」というレゾリューションに対してNEGの立場から、「アメリカに新しくセーター産業が興り、雇用が増える」というADに対して、「ADとまったく同じ規模で、何かしらの産業が縮小し、雇用が減る」というDAを出してオフセットしています。長いですが簡単なので飛ばさず読んでください。

Q) さて今度は別の視点に立ち、これから新たに関税をかける状況を考えてみよう。外国製のセーターには一切関税が課されず、アメリカ人はふだんから外国製の安いセーターを買っていたとしよう。そこへ、五ドルの関税をかければアメリカに新しくセーター産業を興せると主張する輩が現れる。

ここまでは、論理的には正しい。関税をかければ、英国製のセーターはアメリカの消費者にとってひどく高いものにつくので、アメリカのセーター産業にも利益を上げる余地が出てくるだろう。だがこれはアメリカの消費者に、自国のセーター産業に補助金を出すよう強制することにほかならない。アメリカ人はセーターを一枚買うたびに、五ドルの税金を払わされるようなものだ。その五ドルは高い値段という形で徴収され、新生のセーター産業に回される。

なるほどアメリカ人労働者は、これまで存在していなかったセーター産業に雇われるだろう。それはそのとおりだが、アメリカの産業全体としては何もプラスになっていないし、雇用もすこしも増えていない。なぜなら、アメリカの消費者は同じ品質のセーターに五ドル余計に払わされるので、ほかのものを買うゆとりがその分だけ減っているからである。たぶん消費者は、どこかで支出を五ドル切り詰めるだろう。ある一つの産業の振興や育成のために、他の多くの産業がいくらかずつ縮小することになる。セーター産業で五万人2雇用を創出するために、他の産業では合計五万人の雇用が失われているのである。 (UQ

これが実際のディベートのラウンドであったとしたら、このハズリットのDAは「具体性に欠けるからダメ!」として切られるか、「より具体的なADがアウトウェイ!」としてADがDAを上回ることにされて、ハズリットが負けるでしょう(もちろん、ハズリットは三リバするんでしょうが)。

しかし、このハズリットのDAに対し「具体性の不足」を理由に評価を下げるというのはどういう了見なのでしょうか?「縮小する産業」が何か分からないことが問題とされるのでしょうが、この状況においてどの産業が縮小するのかなど分かる必要はまったくありません。ハズリットは、ADで主張される「セーター産業の拡張」とまったく同程度にDAの縮小は起きることは示したわけですから、それがどの産業での縮小なのかが分からなくてもオフセットというハズリットの目的は果たしています。

このように具体性というものは、その水準と議論の強さがどんな状況においても比例するわけではないのです。また、この例のDAで縮小する産業は事実としてこれ以上具体的にはならないものですから、その具体性を上げようとすれば、本来の事実に沿った説明を外れざるを得ないわけです。すると、議論はどんどん本質を外していくことになります。ネッターは頻繁に、無理に5W1Hに答えようとしてイシューの具体性を分相応に上げることによってこの本質からの逸脱を犯します。

具体性なんてものは、5W1Hは無限に問える以上、言語表現に限界が来るまで永久に水準の向上を求めることができてしまいます。回答を求めることが可能な不明点が存在するという事実は、それ自体では何の意味も持たないのです。具体性を問題にできるのは、ある水準を満たすことが必要とされる状況やその水準と連動する有意義な変数が存在する状況など、状況がそれを許す場合のみです。

ちなみに、ハズリットは上記の引用の後、以下のように続けています。

Q) ところが、この新しい産業は目に見える。雇用される人数も、投下される資本も、製品の市場価値も、容易に数字で表せる。新しくできたセーターエ場の近くに住む人たちは、工場に通う労働者を文字通り目の当たりにするだろう。こうした結果は、はっきりしていてわかりやすい。だがその影で縮小するたくさんの産業や、あちこちで減る五万人分の雇用は、なかなか目に入らない。どれほど敏腕の統計学者でも、他の産業で失われた雇用を正確に把握することはできないだろう。消費者がセーターに五ドル余計に払うようになったせいで、どの産業で何人が解雇されたのか、どの産業のどの事業が不振に陥ったのか、などといったことは、どうがんばっても突き止められるものではない。国内の生産活動すべてに散らばった損失は、個々の産業について見れば微々たるものだ。また、関税がなかったら消費者一人ひとりが浮いた五ドルを何に使うはずだったか知ることも、不可能である。そこで大多数の人は、新産業の出現に伴う犠牲は何もなかった、という幻想を抱くことになる。 (UQ