『セオラー宣言』ドラフト置き場

R大学I氏は寿司が好きだった

プラン

プランの想定と定義のねじれ

「プラン」というのは、「ディベーターがスピーチで自身が支持する対象として明示した政策」のことです。そして、(少なくともAFFは)勝つためにはスピーチ中にプランが出されることは必須であるとみなされていますが、この定義は想定とのずれが生じています。ただし、モデルの概念設定の段階では問題はなかったはずなので定義をあるべき姿に戻しましょう。

元々、「プラン」はどのような概念だったのでしょうか。まず、ディベートの論題は政策論題であることは競技制と言って良いので、どこかで「政策」という概念を設定するモデルが出てきてもおかしくはありません。そして、AFFは政策論題を支持しようというわけですから、勝つべく議論を進める過程で、AFFが支持する政策がまったく登場しないということは考えられません。実はNEGもそうなんです。論題が示す政策以外の選択肢となりうる政策が存在しないなら、結局その政策を支持する以外の手段はないわけですから、NEGも議論を進める中で必ず自身が支持する政策を登場させるはずです。

そして、そもそも技術論が依拠するモデルにおいては、この議論の中で必然的に出てくる政策に対して「プラン」という語を当てていたはずなのです(もちろん無意識にですが)。また、その意味での「プラン」は議論で登場することが必然なわけですから、それは勝つために必須の要素であると考えて問題ありません。この段階では、技術論を語る上で「プラン」という術語が有用かどうかは置いといて、少なくとも間違いは起こっていません。

では、ネッターが言うところの「プラン」はどう定義を間違ったのでしょうか。それは、「プラン」を「明示された政策」に限定してしまったことです。元々、「プラン」という術語を当てた概念は「暗示された政策」も含んでいたのです。モデルで考えていた段階では、推論の中で支持対象となる政策が必然的に登場するかどうかは考えていましたが、それが議論の中で明示されるかどうかは一切考慮に入れていません。そして、明示されるかどうかを敢えて考えてみるならば、「明示される部分もある」というのが正しい結論なのです。

議論のプレゼン方法によっては、明示される部分がまったくない場合すらあり得ます。たとえば、「日本政府は関税を廃止するべきだ」という論題に対するAFFの場合、「関税を廃止する」という政策のメリットを挙げていくというプレゼンであれば確かに政策は明示されますが(実は嘘です。詳細は後述します)、「関税」をひたすらディスっていくというプレゼンであれば政策はまったく明示されません[1]。後者のプレゼンの場合、AFFが支持する政策はすべての部分が議論の結果として「暗示」されているのです。

どんなプレゼン方法であっても、それが論題に対して適切である限りは単に言い方の問題であって主張の正当性にはなんら変わりないわけですから、「プラン」は勝つために必須であると想定されているのであれば、プランはすべての適切なプレゼン方法の下で出てくるものとして定義されていなければおかしいのです。それを、ネッターは「勝つために必須」という想定を保持したまま、「明示した政策」と定義してしまったためにねじれが発生したのです。それによって、どのような事態が生じているかは以下の通りです。

プランフォーカスの凶暴化

そもそもプランフォーカスはルールの解釈として存在し得ませんが、プランの定義が間違っていなければレゾリューションフォーカスとの違いはほとんどなく、これほど大きな問題も生じませんでした。プランの定義の誤りによって、本来中学でピアスレベルだったプランフォーカスが本格的にヤーさんになってしまったのです。詳細は、フォーカスを扱う節で解説します。

政策を明示しないと負けという謎

AFFは支持する政策を明示しないと勝てない・・・そんなふうに考えていた時期が俺にもありました・・・。と、言わせたいですね。

AFFが支持する政策を明示しなかった場合、「肯定する対象がないんだからAFFは勝ちようがない」というのが最もネッター的な考え方です。しかし、これはおかしいですね。上記の例のように、関税廃止レゾで「関税はクソである」という言い方で主張するAFFは、ネッター的な言い方では勝てたものとまったく同じ議論を展開しても負けるというんですから。

しかも、AFFに限って言えば、どんな言い方で議論したとしても支持する政策は明示されてるっちゃ、されてるんです。だって、AFFが支持するのはレゾリューションが示す政策に決まってるし、レゾリューションは最初から出ているわけですからね。レゾリューションを目の前にしてAFFが支持する政策が不明というのは謎すぎです。

また、ネッターもNEGに対しては政策を明示しないことを認めています。カウンタープランを出さなかったNEGは、スピーチで支持対象の政策を明示していないわけです。ネッターがDAを取っているということは、NEGは明示しないでOKということです。それについては、「カウンタープラン出てなかったら、レゾリューションの示す政策を行わないことを支持してんは明らかやからええやんけ」というのがネッターの言い分でしょう。

それなら、AFFも、AFFとして議論してる段階で「レゾリューションの示す政策」を支持してるのは明らかなので良いはずです。

これで、AFFに「プラン」と称してレゾリューションを読み上げさせることがいかに馬鹿げているかは分かったでしょう。しかし、それだけが問題であれば大したこっちゃありません。話はまだまだ続きます。

レゾリューションが示す政策以外の政策

ここまで述べたのは、レゾリューションが示す政策に関する問題ですが、もちろんレゾリューションの主語が示す主体はそれ以外にも多くの政策について選択を行う必要があり、最終的な決定は厳密には今後取るべき政策をすべて含んだ「政策パッケージ」間の選択になります(「政策パッケージ」という表現を加味すれば、プランは「ディベーターが支持する政策パッケージ」と定義するべきです)。ここでは、政策パッケージにおけるレゾリューションが示す政策以外の部分についてどう考えられているかを見ていきましょう。この点については、ネッターが「無意識に」行っているやり方に問題はありません。

まず、DAについて見ていきます。ネッターは、DAの結果として支持される政策パッケージは「レゾリューションの示す政策を行わないこと」も含め「何もしない」であると考えています。しかし、それは違います。また、ネッター自身も実際にはそのような政策パッケージを想定してDAを判断していません。

主語を「日本政府」として行為が「何もしない」の場合、お上の連中が公務を一切やめてしまうということですから無政府状態になります。DAで取り上げる問題はNEGが支持する政策パッケージの下では発生しないことがDA成立の条件の1つですが、ネッターが認めてきたDAは無政府状態で回避できる問題を取り上げたものではなかったはずです。

実際にDAで想定している政策パッケージは、「レゾリューションの示す政策は行わず、それ以外については最適と判断した選択をしていく」です。DAの検討において、ネッターが「無意識に」想定している政策の下でも、日本政府は税金を徴収したり、必要に応じて税率を変えたり、ロシアが意味不明に南下してきたら対策を取ったりはするはずです。これらの部分については、レゾリューションの示す政策の有無によって(議論に値するほどの)変化が生じないため議論の中で明示しても意味がなく、そもそも無限にあるわけですからすべて明示するのは不可能です。明示されるのは、議論の中でその必要性が生じた場合だけです。

これは、ADやDAを成立させるためにレゾリューションの示す政策の有無に応じて変化させる必要性が明らかな政策についてすら同様です。たとえば、「憲法改正」を支持する場合に示すADなんて、ほとんどが法改正なども必要であることが明らかなものですが、その法改正に関する政策なんて明示しなくても受け入れられています。

もっと具体的な例として「憲法9条を削除するべきだ」(改正が一般的ですが、単純化のため削除にしました)という論題で考えてみます。AFFが「日本も普通の国と同じように軍事力を運用できないとやばい」というADを出したら普通に認められるはずです。しかし、このADは「憲法9条を削除して、その他は削除しない場合とまったく同じ選択をする」という政策パッケージでは実現できないことは明らかです。自衛隊に関する法規制の改正などが必要でしょうし、そもそも自衛隊普通の国の軍隊と同様に運用することは絶対に欠かせません。これらの部分は、レゾリューションの示す政策を実行しない場合とは異なる選択が行われることが明らかですが、それが一見実行不可能であったり、明らかな問題を含んでいる(またはNEGがそのような主張を行う)場合を除き、議論に上げる意味がないため意識する必要がないのです。

議論ではなくても、意志決定はすべてこのように政策パッケージの一部のみを意識して行われています。例として、「ラーメンが食いたい」という理由で「ラーメン屋に行く」という決定をした場合を考えてみましょう。この場合、ラーメン屋に行くだけでは「ラーメンを食える」というADは発生しません。ラーメン屋に入店したり、注文したり、箸を割ったり、口を開いたりする必要があります。また、もちろんラーメンを食うことを目的としてラーメン屋に行ったからといって、その目的に関わる行動以外はすべてやめてしまうわけではありません。ラーメン屋に行かなかった場合と同様に、風呂に入ったり、仕事に行ったりする、つまり最適と判断した選択を取り続けることは前提としています。これらをすべて統合したものが「ラーメン屋に行く」と決定した際に採用する政策パッケージですが、こんなのは意識していないし、意識する意味がないのですから意識していなくても問題ないと思うはずです(そもそも全部を意識するのは不可能なわけですから)。

各政策の具体的なやり方

また、プランについては、政策パッケージに含まれる各政策の具体的なやり方も問題になります。

少し話が戻りますが、これが最も明確に問題として現れるのはネッターの「政策を明示しないと負け」という勘違いの根拠においてです。先ほどは、「肯定する対象がないんだからAFFは勝ちようがない」ことがその根拠とされていると述べましたが、実際にはそこからさらに踏み込んで(?)、「レゾリューションの文言だけじゃ具体性が足りなくて議論できんのじゃ!」というのもネッターの定説です。だから、よく「マンデート」(昔は「プランク(plank)」と言うことも多かったのですが、最近見ない?)とか言って1ACでレゾリューションの文言にプラスアルファとして、レゾリューションが示す政策の「AFFが支持する具体的なやり方」を明示することが必須だという話になります。

でも、これはおかしいです。だって、そのプラスアルファまで示されたレゾリューションの場合はどうなるのでしょうか?さらに、そのまたプラスアルファの具体性を求めるのでしょうか?レゾリューションに示されているかどうかで、特定の政策に関する議論の可能性が変わるというのはあり得ません。

たとえば、レゾリューションが「消費税を下げるべきだ」であるとすれば、ネッターはマンデートとか出してAFFが支持する政策では「何%まで下げるのか」といった詳細を明示させようとします。そうでないと具体性にかけて議論できないというわけです。じゃあ、「消費税を1%に下げるべきだ」というレゾリューションに対しては何というのでしょうか?もちろん、「消費税を下げる」という文言でも「消費税を1%に下げる」という文言でも、それぞれ「別もの」として具体的なやり方なんか明示せずに議論できます[2]

この具体的なやり方についても、政策パッケージに含まれる、レゾリューションが示す政策以外の政策と扱いは同じで、議論に上げる意味が生じない限りは言及する必要はありません。たとえば、「ラーメン屋に行く」ことの決定に、その行き方に関するマンデート(徒歩、チャリ、匍匐前進、電車、オスプレイなど)や入店方法に関するマンデート(手で扉を開ける、足で開ける、タックルで突っ込む、RPGをぶち込んで突破するなど)なんて議論も意識もしないはずですし、間違いなくそれで問題ないでしょう。

(また、そもそも具体的なやり方をすべて意識することは不可能です。5W1Hは無限に問えるわけですから、「具体的なやり方」を明示しても、さらに「その具体的なやり方の具体的なやり方」を要求できるという状態が永遠に続くわけです。そういう意味では、「意義がないものは意識しない、明示しない」という態度は唯一可能な態度でもあるわけです。)

本節では、主にAFFの視点から説明してきましたが、この内容はNEGが支持する政策についても事情はまったく同じです。

 

[1] 政策のメリットを説明する言い方は、政策論題を支持するめちゃ直接的な言い方であり、ディベート技術論のモデルにも近いから支配的になっているだけで唯一正当なものでもなんでもないのです。レゾリューションによっては、(現行の技術論に毒されていないコミュニティであれば)ディベートの文脈ですらその言い方が支配的ではない場合もあるでしょう。教育目的で言い方を限定したルールにするとかいう操作は、場合によってはありでしょうけど。

[2] AFFから見れば、「消費税を下げる」なら現在の税率が高すぎることさえ示せればOKで何%まで下げるのがベストかは議論する必要なし、「消費税を1%に下げる」なら1%まで下げるのがベストであることまで示す必要ありというだけの話。